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上神谷だんじり祭 | 大阪・堺市上神谷地区のだんじり祭

上神谷地区紹介

上神谷地区の由来

上神谷(にわだに)という地名は、遡ること670年、現在の鉢ケ峯寺に創建された鉢峰山閑谷院長福寺(現:法道寺)がはじまりとされています。
寺伝によると、鳳凰の姿に変えた天照大神が降臨した跡を祀るため、この地に社を造ったとあります。
この「社」とは、現在ある国神社と考えられます。(※下記にある「国神社」の概要をご覧ください。)
古い時代には神のことを「みわ」といい、神が降りてこられた伝説があるこの地域は「上神郷」(かみつみわのさと)と呼ばれ、「みわのさと」が「にわのさと」となり、上神谷(にわだに)という地名となりました。

【現在の上神谷地区各町の地名になるまでの変遷】
1889年(明治22年)4月1日、町村制施行により大鳥郡(片蔵村・田中村・豊田村・栂村・富蔵村・釜室村・畑村・逆瀬川村・鉢ケ峯寺村)誕生。

その後、片蔵村・豊田村・田中村・栂村は合併し大鳥郡中上神村(なかにわむら)になり、富蔵村・釜室村・畑村・逆瀬川村・鉢ケ峯寺村が合併し大鳥郡南上神村(みなみにわむら)になる。

1894年11月10日、中上神村と南上神村が合併し、大鳥郡上神谷村となる。

1896年4月1日より泉北郡上神谷村となる。

1955年4月1日より、上神谷村・久世村・西陶器村・東陶器村と合併し、泉北郡泉ヶ丘町となる。

1959年5月3日よち、現在の堺市に編入され、泉北郡泉ヶ丘町は消滅する。

これ以降、堺市(泉田中・片蔵・釜室・逆瀬川・栂・富蔵・豊田・畑・鉢ケ峯寺)となっており、地区としては途中で加わった緑ヶ丘(※住所地は鉢ケ峯寺)を含め、現在10自治会になっている。

2006年4月1日より、堺市の政令指定都市移行に伴い、堺市南区(泉田中・片蔵・釜室・逆瀬川・栂・富蔵・豊田・畑・鉢ケ峯寺)となった。

「国宝」櫻井神社

当社の創立は悠遠の時代で、社記及び諸文献には古代当地方に居住の桜井朝臣の一族がその祖先武内宿禰命を奉斎した事を伝えている。
推古天皇5年(597)に八幡宮を合祀され上神谷八幡宮とも称せられ、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を奉斎している。
古来、和泉国大鳥郡上神郷の総鎮守として醍醐天皇延喜の制(967)には官幣社に列せられた。
歴代皇室の御崇敬厚く、事に当って度度祈願を仰出され、神領として荘田を寄進せられた。
中世武家の尊崇深く、建武4年(1337)上神城主上神常儀は社殿を造営し、元亀2年(1571)小谷城主小谷甚八郎政種は、三好氏との戦に分捕した陣鐘を奉納し、鐘撞料として御供田を献納した。 また南北朝時代(1336)には、当社及氏子は南朝に属し、上神・和田・桜井・木寺等の武将は、度々戦勝の祈願をこめ、御供田を献納して当社の奉護に尽した。
中世神宮寺建立以来、神仏習合の霊場として近郷は勿論、河内・堺方面より参詣者が続いて隆盛を極めた。
今当社に残る古文書や石燈篭には、これら篤信者の名が記されている。
神域広大で社殿また荘厳を極めたが、天正5年(1577)織田信長の紀伊根来寺征伐の兵火にかかり、神宝古記録を焼失し、神領も没収せられ、社頭は一時荒廃した。
その後、天正16年(1588)加藤主計守清正の発願に依り、先づ阿弥陀堂が再建せられ、(最近棟札写発見)次いで元禄15年(1702)神門を再建、更に享保16年(1731)には鐘楼と宝蔵が再建せられ、漸く旧観に復した。
慶応4年(1868)神仏分離に際し、仏像仏具経巻等は、片蔵の金福寺へ移管し、阿弥陀堂は、別所の法華寺へ譲渡した。
又鐘楼は、神輿庫に改造し現存している。 明治5年郷社に列し、同41年から43年には旧上神谷村内の国神社外九社を合併した。大正6年拝殿が特別保護建造物に指定せられ、昭和3年にはその解体修理が行われた。
又同6年には中門と透塀を新築し、更に16年には社務所の移転改築と境内の整備を完成し、社頭の面目を一新した。
翌17年には府社に昇格せられ、一層神威の尊厳を加えた。
戦後昭和26年文化財保護法の施行に基き、当社拝殿は昭和28年11月14日大阪の神社建築では住吉大社本殿四社とともに国宝建造物に指定をうけ、昭和53年屋根葺替等保存修理が行われた。
国宝、拝殿は鎌倉時代前期(1185)の建築である。
木造切妻造・本瓦葺で、屋根の勾配が緩く、軒廻りは、円柱の上に舟肘木を置いて桁を受けている。
妻飾は、梁間一ぱいに大虹梁を架け、蟇股二個を置き、その上に虹梁を架け、また蟇股を置いて棟木を受けている。いわゆる二重虹梁蟇股式の古い構架法である。内部は中央を土間の通路(馬道)とした割拝殿で、左右の間は板張で桟唐戸を入れている。
この拝殿の特徴は、化粧屋根裏をはじめ、各部に簡素明快な鎌倉建築の手法を表わし、特に妻飾の二重虹梁蟇股の繰形が雄健で、神社拝殿としては最古の建築である。
府有形文化財国神社石燈篭は、「鉢峯山長福寺五所権現、応永19年3月17日勧進良秀」の銘文があり、松平定信の「集古十種」(1800)に載録された府下有数の古灯である。
平成5年3月26日大阪府、堺市の補助により補修のあと境内神具庫に保存している。
宝物は、神像・神鏡・神輿・神額・狛犬・獅子頭・棟札・制札・出土品・古鈴・古瓦等で鎌倉室町時代(1185~1336)の物が多い。
なかでも国神社神像三躯は府の有形文化財の指定をうけている。
古文書は、南北朝時代の争乱と、天正年間の兵火のため大半亡失したが、尚数百通あり。
その内「中村結鎮御頭次第」二巻は、正平6年(1351)より明治5年まで520年間年々書継いだ宮座記録で、南北朝時代の公武勢力の興廃と、神社を中心とした社会秩序を知る他に類例のない貴重な史料である。
国の無形民俗文化財「こおどり」は、古来鉢ケ峯寺氏子が国神社に奉納して来た神事舞踊である。
音頭取の歌に合せて、「ひめこ」を背負った赤黒の鬼神と、三尺棒を持った赤黒の天狗四人を中心に、一文字笠紋付に締太鼓を持った太鼓打八人と鐘打、扇振が新発知を先頭に外踊、鐘と大鼓の囃子で踊る古典的な郷土芸能で、明治43年当社が桜井神社に合併以来その秋祭に奉納され、現在は10月第一日曜日の例祭に行われる。

御祭神
式内 桜井神社本社 中殿 応神天皇 東殿仲哀天皇 西殿神功皇后
式内 国神社 天照皇大神 熊野大神 山王大神 金峯大神 白山大神
式内 山井神社 美豆波乃女命
稲荷神社  保食神
戎神社   蛭子神 言代主命
招魂社   氏子戦死者 一八三柱
八阪神社  須佐之男命
若宮神社  仁徳天皇
高良神社  高良大神
武内神社  武内宿禰命
多賀神社  伊邪那伎命
玉桂屋神社 玉桂姫命
住吉神社  住吉大神
市杵島神社 市杵島姫命
春日神社  天児屋根命
菅原神社  菅原道真命
祭礼等
歳旦祭   1月1日
元始祭   1月3日
戎祭    1月9・10・11日
節分祭   2月節分の日
初午祭   3月中旬
大祓式   6月20日
夏祭    7月15日
例祭
氏子入 こおどり奉納
      10月6日(行事は第一日曜)
七・五・三祭 11月中
大祓式   12月31日
除夜祭   12月31日
襲の峯(堺市鉢ケ峯公園山頂)
もと国神社境内地に接し小倉峯とも呼ばれ法道寺縁起の国神社御祭神降臨の霊跡で古墳の形状をなし石祠がまつられている。故にこの地を神の郷と言い旧村名もこれに因んで明治27年には上神谷村と名づけられた。
桜井
当社境内の西に隣接して当社御祭神に深い縁故を有し古来夏祭に御神幸あり、常に清水湧出により桜井井戸と称されたが、明治18年河川氾濫して埋没、大正4年御大典記念に復旧、井戸は現存しない。
亀塚(福塚)
福塚とも言い当社本殿の傍にあり、正八幡宮縁起に推古天皇5年8月8日亀乙と呼ぶ老翁現われ当社御神像を刻んで形亡せその跡に土を封じて亀塚と名づく。神仏混渚時代境内には神宮寺があり、山号は亀遊山である。

上神谷地区の名所

■国神社です。(堺市鉢ケ峯寺)
和漢三才図会の記述によると、鉢ケ峯神社(旧国神社)上神郷鉢峯にある。祭神 天照大神 縁起にいう。垂仁天皇八年に、天照大神が鳳凰に化してこの襲峯(おいそのみね)に降った。垂仁天皇の皇子が登臨して化跡を礼祭したので、神郷という。景行天皇二十四年に神託によって、武内宿禰に命じて社を営み、五十五年に神鳳を千種森に移した。今の大鳥神社がこれである。「旧事紀」にいう。大己貴尊は天羽車大鷲に乗り、妻妾を求めて節渡県(節渡は茅渟と書くのに当る。茅渟は即ち今の和泉の地である)に下向した。大陶祇の女活玉依姫を娶って妻として往来した時、人はそのことを知らずして密かに往来する間に女が懐妊した。父母は疑い怪しんで、誰が来るのか、と問うと、女は答えて、神人が装い来て、屋上から降って来られ、共に臥すだけである、と言った。そこで父母は早く正体を知りたいと思って、麻を績んで綜を作り、針で神人の短裳に掛けさせた。明朝掛けたものに随って尋ねいくと、鍵穴を抜けて節渡山にを経て吉野山に入り三諸山に留まった。それで大神であるとわかった。綜の残りを見ると、ただ三わげであったので、三輪山と名付け大三輪神社という(「泉州志」にいう。大己貴尊の降臨の地はこの山か。陶邑も近い。かつこの地を上神と名付けて加無都美和(かむつみわ)と訓むのは、大和国の三輪に対していうものか)。と書かれている。

■法道寺です。(堺市鉢ケ峯寺)
白鳳時代、天智天皇9年(670年)法道仙人当山に来たり飛鉢の法修せられ、その霊験の著しきにより終に輦下に達し勅願寺として開創され、もと閑谷院長福寺と称され多数の寺院を擁した大寺院であった。享保元年(1716年)徳川八代将軍吉宗公の嫡子に長福丸と名づけられてより法道寺と寺号が改められた真言宗の寺である。 承和11年(844年)慈覚大師、仁明天皇の勅を奉じて当山に参籠薬師の尊像及光背に千体の薬師仏を造刻せらる(本堂中央に安置)、又伝教大師、弘法大師も勅を受けて祈願所とされたが、のちに寺運衰え、加えて元亀、天正の乱を蒙り寺坊も減じ幕末には7坊となり現在は2ケ寺となった。  境内には、鎌倉時代中期に建てられた食堂、室町時代初期の多宝塔があり、ともに国の重要文化財建造物にしていされている。また寺宝には鎌倉時代の十六羅漢像十六幅(土佐将監の筆)は国の重要文化財美術品にしていされている。(看板より)

■法道寺境内にある金堂です。

■法道寺境内にある大師堂です。

■法道寺境内にある国の重要文化財建造物指定の食堂です。

■法道寺境内にある国の重要文化財建造物指定の多宝塔です。

■櫻井神社前です。(堺市片蔵)

■国宝に指定されている割拝殿です。

■割拝殿裏側からの撮影

■神社内にある神輿庫です。 看板には「享保16年再建、昭和53年修理 僧形八幡神功皇后奉安神輿格納」と書かれています。

■櫻井古跡です。(堺市片蔵)
櫻井井戸と呼ばれ、悠久の昔より櫻井神社御祭神に深い縁故を有し、古来夏祭に御神幸あり、和泉名所図絵にも登載の古跡である。常に清水湧出して枯渇することがなかったが、明治18年の大洪水により河川氾濫して埋没、大正4年に御大典記念に30年ぶり復旧、さらに平成元年妙見川拡幅、宮橋架替工事の竣工により、整備保存されたが、井戸は存在しない。(櫻井古跡前看板より)

■小谷城郷土館です。(堺市豊田)
【小谷城址とその屋敷】小谷城は高さ約80メートルの独立した山で、13世紀中頃(鎌倉時代)に、自然のままを城として使われた、堺市内で最も古い城址の一つである。この城は、栂山城・豊田城とともに鼎城といわれ、平氏一族の小谷氏の居城であった。小谷氏の家伝によると、京都よりこの地若松荘に移り住み、地頭となって荘園を管領していた。南北朝時代には、南朝に味方して数々の戦に参加して幾多の武功をたてた。しかし、戦国時代には紀州(和歌山県)根来寺の味方をしたため、天正3年(1575年)織田信長の根来征伐の際ともに落城した。以来、郷士となって小谷城麓に住み着いて、現在まで約400年続いている。旧小谷城母家は高塀造(大和棟)の格式のある屋根であったが、近年その形式を残し銅板葺きとした。右手に別棟玄関(出玄関という)があり、伯太藩(現和泉市)藩主渡辺公のしばしばの来訪の際に重宝した。また、座敷は上段の間となっている。門は廃藩置県後、伯太藩屋敷の門を拝領して移築したものである。なお、屋敷内の庭は石州流(祖片桐石州)庭園である。(看板より)

■上神谷の妙見さん感應寺です。(堺市富蔵)
妙見山感應寺と称し日蓮宗に属す。九星(生まれ歳の星)の守り神で、北極星を神格化した妙見大菩薩を祭っている。本寺の起源は寺伝によると、大化元年(645年)唐の聖僧法道仙人が、当地にて大乗法華経を誦じたときに、北極星が童子に化して姿を現した。この姿を一刀三礼の儀をもって浄刻し祠を建てここに祭ったのが起源と伝えられる。妙見堂は江戸初期の万治元年(1658年)に再建され、このことは「明暦年中泉州堺妙国寺の大檀那となり、万治元年3月16日当寺を建立す」と記された境内の錺屋藤左衛門の建立碑により明らかであり、当寺は藤左衛門が、妙国寺の世應院日俊上人を導師として開山したものである。江戸中期から妙見信仰の盛んな頃は、大阪北部の能勢妙見山・交野市の星田妙見山とともに、大阪の三大妙見山と言われ、大阪や堺だけでなく遠く和歌山や河内などから多くの信者が集まったといい、今も往時の道案内石柱が点在している。例年2月3日の節分星祭り除厄祈祷会は1300余年の歴史を誇り、8月16日は万灯供養儀式が行われる。(看板より)

「いのこ(亥の子)」について

上神谷地区にも11月に子ども会の伝統行事として『いのこ』が行われます。
「いのこ」とは、新藁を棒状にたばね、縄で強く結わえた亥の子槌をつくって、子ども達が米の収穫に感謝するとともに、家あるいは村全体の繁栄を祈願するために、歌を歌いながら、いのこ槌をついてまわります。
全て周ったあとは公民館でお菓子やお駄賃を貰います。 歌ですが、若干、村によっては異なるようです。
管理人の自治会(泉田中)では、 『い~のこ~の晩に 重箱拾て~ な~か開けて見~れば 今~年の新米はいたっ~た そ~れもう一つつ~いて 帰りましょ』 てな感じです。
昔ながらに続くこの伝統行事、いつまでも残していきたいものです。
全国でもあるようです。

『ウィキペディア』より
亥の子(いのこ)は、旧暦10月(亥の月)の亥の日に行われる年中行事。玄猪、亥の子の祝い、亥の子祭りとも。主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る。あるいは、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る事等がある。 歴史的には、古代中国で旧暦10月亥の日亥の刻に穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説や、古代における朝廷での事件からという伝承もある。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる。

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